二足歩行の人魚姫

どうやらおとぎ話はまだ海の中らしい

 日はすでに高く登り、窓からは刺すような光が差し込んでいた。その光を顔に受けたグレゴワールは、寝返りを打ちながら枕元の時計で時間を確認する。いつもより遅い目覚めだが、早朝の急な呼び出しに対応したのだから、これくらいなら許容範囲だろうと自分に言い聞かせ、ベッドから這い出た。そのまま寝室に備え付けられたバスルームに向かう。眠い目をこすりながら歯ブラシを手に取り、ペーストを無造作につけると口に突っ込んだ。気だるげにそれを左右に動かしながら、洗面台の横にかけられているシャワーカーテンを開く。
 バスタブには水が張られており、ニコラウスが抱えて連れて帰ったタラが窮屈そうに泳いでいた。
 おい、と軽く一声掛けてみるが、返事をするどころかこちらをちらりとも見なかった。どうやら意思の疎通は無理らしい。シャワーカーテンを窓に戻し、鏡の中の眠そうな自分を眺めながら歯磨きに戻った。

 ちょうどその時、その真下の階にあるキッチンでニコラウスは紅茶を淹れる準備を始めていた。このアパルトマンは古い建物で、上階で誰かが動き回れば、その振動が真下の階に響くのだ。この部屋の主が着替えを済ませてキッチンに現れるまであと数分。テーブルの上には今朝の朝刊、そして人魚姫の本が置かれていた。
湧いた湯を茶葉の入ったポットに注ぎ、蓋をして傍に置いてある砂時計をひっくり返す。砂が落ちきる前にテーブルにミルクと砂糖を並べ、二脚用意したカップのひとつには、ソーサーにビスケットを二枚並べておく。
 グレゴワールとニコラウスは、警察では手に余る不可解な事件だけを請け負う探偵だ。と言ってもそれは、この街で名乗っている職業であり、真の彼らの役割はまた別にある。探偵業は基本的にニコラウスが窓口になり、その事件が二人が請け負うのに相応しい内容か審査する。
 今回、ニコラウスが気にかけていたのはひとりの少女の妄言と、それに纏わる奇妙な現象について。正直子どの妄言はよくあることだしと、軽視してニコラウス一人だけで調査してしまおうと考えていた。しかし、今朝の出来事で考え方を改める必要があった。
 路地裏に落ちていた魚がくわえていた男性の右腕。男がタラに食べられたのではないとすると、順当に考えれば、腕が切り取らたということになる。現実の"誰か”に被害が出てしまった。彼らとしては、こういった不可解な事件を世間の目に触れる前に解決してしまいたかった。
 キッチン台の淵にかるく腰掛け、ニコラウスが自らまとめた資料をパラパラとめくっていると、とん、とん、とん、と、階段を下る音が聞こえてきた。そしてすぐにキッチンのドアが開かれる。砂時計の砂が、ちょうど全て落ち終わった時だった。
 「おはようグレゴワール、お茶の準備はできているよ」
ニコラウスが挨拶を口にしながら、ビスケットが添えられたカップに紅茶を注いだ。
「たら、喋らなかったな」
 朝刊を手に取り、一面に目を通しながらグレゴワールは言った。そのまま、用意されたカップの前に着く。
「…今回のお客さんは、フローレンス・シーボルト。もうすぐ15歳になるお嬢さんだ。フローレンスは妄言が激しくてね。幼い頃は、その時期特有のひとり遊びの延長だと思われていた。この年齢になっても治らないんで、カウンセリングを受けてる」
 グレゴワールの言葉を無視して、ニコラウスは持っていた資料を彼に手渡した。内容はフローレンスが受けていたカウンセリングに資料。
「お前が動いたってことは、ただの妄言じゃなかったんだろう?」
「まあね、大したことなさそうだったからって、勝手にひとりで動いたことは詫びるよ」
「別にいいさ、新聞に男性失踪とか殺人事件とかの記事は出てなかった。世間で大事になる前に片付けよう」
 グレゴワールはニコラウスの話に耳を傾けつつ、カウンセリング内容が記された資料をパラパラとめくる。
「彼女、その世界のことばかり喋るらしいんだ。それも人魚側の視点で」
 ニコラウスが、人魚の描かれた絵本を指差した。
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